論理と感覚、科学と非科学。どちらかに偏ることなく、両方の価値を見つめ直したい。
幼い頃から、目に見えないものに惹かれていた僕が、いま改めて「魂」や「エネルギー」という言葉を考える。
幽霊や妖怪に惹かれた少年時代
小学生の頃、夏休みにテレビでやっていた『あなたの知らない世界』という心霊番組を、昼間からドキドキしながら観ていた。『ゲゲゲの鬼太郎』も人気で、妖怪や幽霊の話は、子ども同士でよく交わされる話題だった。
「幽霊っていると思う?」
「妖怪って本当にいるのかな?」
そんなやり取りは自然で、僕も怖がりながらも心惹かれていた。ただ「信じたい」「信じたくない」という感情ではなく、「あるのか、ないのか」という純粋な問いが、どこか心に余白を残してくれた。
救いとしての“目に見えないもの”
成長するにつれ、神社のお守りや言霊、願掛けなどに触れる機会が増えた。どれも科学的に証明されるものではないけれど、不思議と安心できた。
それは、心が疲れているときほど、そうした“見えない何か”に支えられたくなるからかもしれない。
一方で信じてきた「目に見えるもの」
僕は同時に、数学や物理学といった科学的な理論にも安心を感じていた。家庭の中が不安定で混沌としていたからこそ、秩序立った理屈や法則に救われる部分があったのだと思う。
「世界は破綻していない」
そんな実感が、混乱だらけの日々にとっての“仮の土台”になっていた。
科学だけでは説明できないもの
それでも割り切れないことが、日常にはたくさんある。
初対面なのに落ち着く人。
会話していないのに伝わる気配。
一緒にいるだけで疲れてしまうような存在。
これらを「波動」や「エネルギー」で説明するスピリチュアルな考え方に、以前は懐疑的だった。けれど、自分の心や体が確かに“反応”しているのなら、それもひとつの「現象」として受け入れていいのではと思うようになった。
「魂」や「縁起」に感じる意味
仏教の「縁起(えんぎ)」という考え方は、すべての物事がつながりの中にあるというものだ。科学的というより、感覚的な真理に近い。
人間関係でも、言葉にできない「気配」や「空気」のやりとりがある。そこに「エネルギー」や「魂」といった言葉を与えることで、理解が届く場所があるように思う。
見えないものを切り捨てない感性
すべてをスピリチュアルで説明するのは危ういし、科学を否定するつもりもない。けれど、「科学で説明できないもの=存在しないもの」とは限らない。
言葉にできないものを「まだ名前がないだけ」と残しておくこと。
それが、僕にとって大切な希望だった。
「エネルギー」を受け入れる理由
僕が「魂」や「エネルギー」という概念を信じようと思ったのは、単純な話、それがあったほうが納得できることがあるからだ。
誰かの表情にふと感じる違和感や安心感。
言葉になる前に伝わってくるもの。
それらは、数字や理屈だけでは掴みきれない、つながりの感覚だった。
追記
論理と感覚、科学とスピリチュアル。
どちらが正しいかを争うのではなく、両方に「居場所」を見つけていくこと。
目に見えないものを信じるというのは、
誰かを傷つけないためではなく、誰かとつながるための力になる。
僕はそう信じている。


