僕は怒りを外に出せない子どもだった。
でも心の奥ではずっと、不満と憤りが渦を巻いていた。
今回は、「怒りの感情」と向き合い続けた子ども時代、そして仏教の言葉から得た気づきについて綴ります。
怒りの代わりに問い続けていた「自分の何がいけないのか?」
僕は怒りを外に出せない子どもだった。
けれど、その内側にはいつも、不満と憤りが静かに積もっていた。
「こんなに我慢してるのに、なんでうまくいかないんだ」
「どうして親は、世間の常識とこんなに違うんだ」
そう思うことは何度もあった。けれど口には出せなかった。
だから僕は、怒りの代わりに問い続けることを選んだ。
「自分の何がいけないのか?」と。
何かを変えるたびに、さらに怒られ、さらに否定された。
それでも、自分に原因を探すしかなかった。
気持ちを切り替えるための「逃避」
ガマンだけでは心が持たないと感じた頃から、僕は気持ちを切り替える方法を探した。
- マンガを読むときは、別世界に没頭できた
- 小説を読むときは、自分と違う誰かの人生を追体験できた
- 映画を観るときは、自分の感情を一度リセットできた
そうやって、怒りや不満が心の奥で渦巻くのを、一時でもやわらげようと努めた。
けれど、それは一時しのぎにしかならなかった。
心の深いところに沈んでいた問いは、何ひとつ片付いてはいなかった。
自己犠牲に違和感を覚えたうさぎの逸話
ある日のこと、小学生のころに読んだ手塚治虫の『ブッダ』がふと蘇った。
その中に出てくる、飢えた旅人のために、自ら火の中に飛び込むうさぎの話──
「誰かのために自分を差し出す」その姿は、当時の僕の胸にも焼きついた。
けれど大人になって思い返すと、あのうさぎの自己犠牲に、どこか違和感を覚えた。
- 「やっぱり我慢するしかないのか」
- 「自分を差し出すことが“いいこと”なのか」
そんなふうに思い詰めていた自分の姿と重なった。
自分を消すことで場を保っていた日々
仏教には「慈悲(じひ)」という教えがある。
他者の苦しみを和らげようとする心だ。
でも、そこに「自分を犠牲にしてでも」という前提があると、
優しさはすぐに“自分を消すこと”にすり替わってしまう。
僕は、怒りを抑えるあまり、
「自分の存在を消すことで場を保とうとする」癖がついていた。
それは自己犠牲ではなく、自尊感情の放棄だった。
怒りを手放すという選択
「怒ってはいけない」のではない。
「怒りに巻き込まれて、自分を壊さなくていい」
仏教の教えは、そう語ってくれる。
怒りを否定する必要はない。
でも、その奥にある本当の感情──
悲しみ、虚しさ、不安、孤独──に目を向けることで、
怒りは少しずつほどけていく。
僕は、怒りを捨てたわけではない。
ただ、怒りを生きる中心に置かないことを選んだ。
それだけで、少し心が軽くなった。
誰かを変えようとしなくても、
自分の心に静かなスペースが生まれる。
それが、僕にとっての癒しのはじまりだった。
追記
「自分の何がいけなかったのか?」と問い続けていた僕は、
最近ようやく、
「もしかしたら、何もいけないことなんてなかったんじゃないか」
と思えるようになった。
怒りや我慢は、僕を守ってくれた感情でもある。
でも、もう“差し出す自分”ではなく、
“ありのままの自分”を少しずつ育てていきたい。


