「普通の家庭」に羨望した日──他人と比べてはいけないと思っていたのに

それでも生きる

 子どもの頃、友達の家ではなく、従姉妹の家や近所のお寺で感じた「よその家のあたたかさ」。今回は、そんな記憶を通して、自分の家庭との違い、心の揺れ、そして癒しの始まりについて振り返ります。

よその家で初めて知った穏やかさ

従姉妹の家に泊まったとき、驚いたことがありました。
怒鳴り声も物音もなく、自然な笑顔があふれていたのです。

その穏やかな空気は、自分の家にはなかったもので、「こんな場所があるんだ」と、子どもながらに感じたのを覚えています。

近所のお寺にも、両親が交代勤務のときに預けられることがありました。
住職様ご夫婦は40歳以上も年上でしたが、言葉も表情もやさしく、静かな時間が流れていました。

「ここでは怒られない」と自然に思える場所に、僕はホッとしていたのです。

自分の家は安心できる場所ではなかった

決して「ひどい家だった」とは言いません。
でも、心から安心できる場所ではありませんでした。

母は気分屋で、突然怒鳴り出すことも。
叩かれることもあれば、ご飯がない日もありました。

醤油や塩をかけたご飯、お茶をかけただけのお茶漬け、たいていはインスタント麺で済ませることも多く、当時はそれが「普通」だと思っていました。

お菓子をめぐる混乱

母と一緒によその家を訪れたとき、「お菓子をどうぞ」と言われても、母に止められてばかり。

そのせいで、すすめられても断るようになりました。
すると今度は「子どもらしくない」と言われる。

母の言うことを守れば他人に嫌がられ、自分の気持ちを優先すれば母に怒られる──。
僕の中には、怒られたくない気持ちと混乱、そして小さな憤りが渦巻いていたのです。

羨望という、まっすぐな感情

よその家のあたたかさにふれると、「いいな」と素直に思いました。
それは嫉妬ではなく、羨望に近い感情でした。

「こんな空間が、この世にはあるんだ」
──そんな発見でした。

大人になってわかったこと

他人を羨ましく思うことは悪いことではありません。
それは、「自分も大事にされたかった」「安心したかった」という、心の叫びなのです。

怒鳴られない夜、穏やかな食卓、親の顔色を気にせず笑える空間。
それらがなかったことを「なかったこと」にせず、認めてあげる。
それが、今の自分を癒す第一歩になりました。

穏やかな存在でありたい

今もときどき、ふと思い出すと胸が痛くなることはあります。
でも、「あの家からここまで来た」という実感も同時にあります。

あの経験があったからこそ、優しさの価値がわかる。
だから僕は、誰かにとっての「安心できる存在」になりたいと、心から思っています。

追記

誰かの家庭がうらやましく思えるのは、「愛されたい」というまっすぐな願いがあるから。

その気持ちは、間違ってなんかいません。
どうか、自分の感情に正直でいていいと、あなた自身が許してあげてください。

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